ミュージカル俳優や歌手、ドラマ、MCなど幅広く活躍している山崎育三郎さん。
華やかな現在の姿からは少し意外ですが、山崎さんには高校生のころ、介護が必要な祖父母と3人で暮らしていた時期があります。
しかも本人が後年、当時について「今でいうヤングケアラー」のような生活だったと振り返っています。2026年6月のインタビューでも、高校へ通いながら食事の準備やトイレ、入浴など祖父母の介助をしていたことを詳しく明かしました。
では、なぜ高校生だった山崎育三郎さんが祖父母の介護を担うことになったのでしょうか。
そこには、アメリカ留学から帰国した当時、父親や母親、2人の兄、弟がそれぞれ別の場所で生活していたという家庭事情がありました。
さらに山崎さんを支えた友人たちやミュージカルの存在、そして2026年の「24時間テレビ49」で医療的ケア児とその家族に向き合う企画までたどると、10代の経験と現在の活動が一本につながって見えてきます。
この記事では、山崎育三郎さんがヤングケアラーだったといわれる理由、その当時の家庭事情、家族・兄弟、介護生活を支えた人たちについて、本人の発言や公式情報を中心に整理します。
- 山崎育三郎さん自身が10代の生活を「今でいうヤングケアラー」と振り返っている
- 17歳ごろ、介護が必要な父方の祖父母と3人で暮らしていた
- 父親、母親、2人の兄、弟は当時それぞれ東京を離れていた
- 山崎育三郎さんは男4人兄弟の三男
- 高校へ通いながら食事、トイレ、入浴など祖父母の生活を支えていた
- 介護生活では親友たちとミュージカルの存在が大きな支えになった
- 2026年「24時間テレビ49」では、自身の経験を背景に医療的ケア児とその家族を取材する
山崎育三郎はヤングケアラーだった?
山崎育三郎さんは、10代で祖父母の介護を担っていた経験について、現在の言葉でいえば「ヤングケアラー」だったと自ら振り返っています。
第三者が後から噂として当てはめたものではなく、本人が複数のインタビューやテレビ番組で語っている経験です。
17歳ごろから祖父母と3人暮らし
山崎さんは高校2年生のころにアメリカへ留学しました。
その後、日本へ帰国した17歳ごろから、東京の自宅で父方の祖父母と3人で生活するようになります。
2022年に出演したNHK「SONGS」でも、高校から大学時代にかけて祖父母を介護していたことを明かしています。
2026年6月のインタビューでも、当時は現在のように「ヤングケアラー」という言葉がなかったものの、自身の生活がそれに当たるものだったという認識を示しています。
そもそもヤングケアラーとは?
こども家庭庁によると、現在は「家族の介護その他の日常生活上の世話を過度に行っていると認められる子ども・若者」が支援対象として法律上明記されています。
単に家事を手伝ったり、家族に優しくしたりすること自体を指すわけではありません。
家族の介護や世話によって、勉強や友人との時間、将来に向けた準備などに影響が出たり、身体的・精神的な負担が重くなったりしているかが重要になります。
山崎さんの場合は、高校へ通いながら日常的な介護を担っていました。
そのため「山崎育三郎はヤングケアラーだった?」という疑問には、本人自身が現在の言葉でそう振り返っていると答えるのが最も正確でしょう。
「その家庭事情」とは?帰国後に家族が各地で暮らしていた
では、なぜ山崎育三郎さんが高校生で祖父母と暮らすことになったのでしょうか。
ここを理解するには、「誰が介護をしなかったのか」という見方ではなく、当時の家族がそれぞれどこにいたのかを整理すると分かりやすくなります。
帰国したとき父・兄・弟は東京にいなかった
2026年の本人インタビューによると、山崎さんが祖父母の介護を始めたころの家族の状況は次のようになっていました。
| 家族 | 当時の状況 |
|---|---|
| 父親 | 北海道へ転勤 |
| 母親 | 祖父母の介護から離れ故郷へ |
| 長男 | 海外の大学 |
| 次男 | 海外の大学 |
| 山崎育三郎さん | アメリカ留学から帰国 |
| 弟 | 香川県の強豪校で寮生活 |
| 父方の祖父母 | 東京で生活、介護が必要 |
2024年の「人生最高レストラン」でも、長男はアメリカ、次男はニュージーランド、弟は香川県の尽誠学園、父親は北海道にいたことを山崎さんが説明しています。
つまり、祖父母のいる東京へ戻ってきた山崎さんが、家族の中で物理的に祖父母のそばにいる状況になったわけです。
それまで祖父母を介護していたのは母親
山崎さんが介護を始める以前は、父方の祖父母を母親が長期間支えていました。
2026年のインタビューでは、父親が仕事で海外にいる時期も長く、母親が介護を担っていたものの、精神的に限界に近い状態になっていたと山崎さんが説明しています。
そこで留学から戻った山崎さんが、母親に介護から離れてもらい、自分が祖父母を支えることを決めました。
高校生にとって非常に大きな決断だったことが分かります。
「誰が悪い」という話ではないと本人も説明
ここで重要なのは、家族の誰か一人に責任を求める話ではないという点です。
山崎さん本人は、自分で介護を担うと決めたことを説明したうえで、家族の誰かを責める話ではないという趣旨の発言をしています。
父親は転勤、兄たちは海外、弟は香川県で寮生活。
そのうえ、それまで母親が長く介護を担っていました。
いくつもの事情が同時に重なった結果、帰国した山崎さんが祖父母と生活することになったと考えるのが自然です。
高校生の山崎育三郎はどんな介護をしていた?

山崎育三郎さんがしていたのは、簡単な家事の手伝いという範囲ではありませんでした。
食事を作り、トイレを介助し、夜には入浴も手伝うなど、学校生活と祖父母の介護を両立していました。
朝は介護をしてから高校へ
2026年のインタビューで山崎さんは、当時の一日の流れを具体的に明かしています。
朝食を準備し、祖父母のトイレを介助したあと、ヘルパーと交代して高校へ向かっていました。
そして帰宅後は祖父母と夕食を食べ、入浴の手伝いをするという毎日だったといいます。
流れを簡単にすると、
朝の介護
→ 高校へ通学
→ 帰宅
→ 夕食
→ 入浴などの介助
という生活です。
高校生の一日の中に、介護が組み込まれていたことが分かります。
祖父母はともに重い介護が必要だった
山崎さんによると、祖母は右半身が不自由で、祖父にも言葉や歩行に不自由がありました。
2022年の「SONGS」を伝えた報道では、親友の証言として祖父が認知症を患っていたことも紹介されています。
山崎さんは身体的な大変さだけでなく、祖父母が次第に自分を孫として認識できなくなっていったこともつらかったと振り返っています。
介護には体力だけでなく、精神的な負担もあったことがうかがえます。
介護生活は2年ほど続いた
2026年の本人インタビューでは「2年ほど」、過去のテレビ番組では「2、3年」と振り返っています。時期の表現には多少の幅がありますが、17歳ごろから大学生になるころまで介護生活が続いていたことが分かります。
山崎育三郎の家族・兄弟は?男4人兄弟の三男

山崎育三郎さんは、男4人兄弟の三男です。
「育三郎」という名前の「三」も、三男であることとつながっています。
本人は2024年のテレビ番組で、4兄弟の名前も公表しています。
兄弟4人の名前には数字が入っている
山崎さんが明かした4兄弟の名前は次の通りです。
| 続柄 | 名前 |
|---|---|
| 長男 | 祐一郎さん |
| 次男 | 令二郎さん |
| 三男 | 育三郎さん |
| 四男 | 厚四郎さん |
一郎、二郎、三郎、四郎と、兄弟それぞれの名前に順番を示す数字が入っているのが印象的です。
山崎さんによると、子どものころは男4人で非常ににぎやか。
兄弟で2対2に分かれてけんかすることも多かったそうで、現在の「ミュージカル界のプリンス」というイメージとは違い、かなり体育会系の家庭で育ったと本人がたびたび語っています。
長男と次男は海外、弟は香川県にいた
祖父母の介護が始まった時期、この3人の兄弟は山崎さんのそばにはいませんでした。
長男と次男は海外の大学へ進学。
弟は甲子園を目指して香川県の強豪校に進み、寮生活をしていました。
普段は4人兄弟でも、介護が必要になった時期にはそれぞれ別の場所で生活していたのです。
この事実を知ると、なぜ帰国した山崎さんが祖父母と3人暮らしをすることになったのかが、より分かりやすくなります。
兄たちの影響で海外へ挑戦するようになった
兄弟は山崎さんの人生に別の影響も与えています。
過去のインタビューで山崎さんは、最初に長男がアルバイトでお金をためて短期留学し、その姿を見た次男、山崎さん、弟も海外へ行ったと話しています。
つまり山崎さんのアメリカ留学にも、兄たちの存在が一つのきっかけになっていました。
介護の時期だけを見ると兄弟は離れていましたが、山崎さんの行動力や海外への挑戦には兄弟から受けた影響もあったようです。
現在の家族は?妻は安倍なつみ
10代のころの「家族」と、現在の山崎育三郎さんが築いている「家庭」は分けて考える必要があります。
現在、山崎さんは元モーニング娘。の安倍なつみさんと結婚しています。
安倍なつみと2015年に結婚
山崎育三郎さんと安倍なつみさんは、2015年12月29日に結婚しました。
当時は双方の所属事務所を通じて正式に発表され、山崎さん自身も入籍を報告しています。
その後、2016年に第1子、2018年に第2子、2022年に第3子の誕生が発表されています。
現在は3人の子どもを持つ父親でもあります。
介護生活を支えたのは親友たちだった
山崎育三郎さんの介護経験を「高校生が一人ですべて乗り越えた話」と捉えるのも正確ではありません。
本人の話からは、ヘルパーだけでなく、親友たちの存在も大きな支えだったことが分かります。
友人たちは家に来て介護も手伝っていた
2026年のインタビューで山崎さんは、親友たちが頻繁に家へ来てくれたと振り返っています。
介護を手伝ったり、山崎さんを笑わせたりしながら、つらい時期を支えてくれたそうです。
このエピソードは重要です。
ヤングケアラーというと、家族の中だけで孤立して介護している姿を想像しがちですが、山崎さんの場合は外から支えてくれる友人がいました。
その存在が、介護生活を続けるうえで大きな力になっていました。
「助けを求める発想がない」という本人の実感
介護を経験した山崎さんは、現在のヤングケアラーについても自身の考えを語っています。
本人の経験では、自分が置かれている状況を日常として受け入れてしまうため、「助けを求める」という発想そのものが生まれにくかったといいます。
これは、こども家庭庁がヤングケアラーについて「本人や家族に自覚がない場合がある」としている点とも重なります。
山崎さん自身も、今ヤングケアラーとして生活している子どもたちに対し、一人ではないと気づき、孤独にならないでほしいという思いを語っています。
過去の介護経験が、現在の言葉にもつながっていることが分かります。
もう一つの支えはミュージカルだった

友人と並んで、山崎育三郎さんを支えたものがミュージカルでした。
現在の職業につながっただけではなく、介護で苦しい10代を過ごしていた山崎さんにとって、ミュージカルは「その先の未来」を思い描くための存在でもありました。
行き詰まると劇場へ行き夢を思い出していた
山崎さんは2026年のインタビューで、介護生活に行き詰まったときには帝国劇場などへミュージカルを見に行っていたと明かしています。
目の前には高校生活と介護。
その一方で、劇場へ行けば憧れていた舞台がある。
山崎さんは「あの舞台に立つ」という目標を思い出し、自分を奮い立たせていました。
単なる趣味というより、将来へ気持ちを向けるための大切な場所だったのでしょう。
19歳で「レ・ミゼラブル」のオーディションへ
介護生活が約2年続いたあと、父親が東京へ戻ることになり、山崎さんは本格的に自分の夢へ向かえる状況になります。
そして19歳のころ、「レ・ミゼラブル」のオーディションに挑戦しました。
山崎さんは大学1年生時代に仲間と「レ・ミゼラブル」の自主公演まで行うほど作品への思い入れがあり、オーディションにも合格しています。
ここで、
高校生で祖父母を介護
→ 劇場へ行き夢を持ち続ける
→ 介護生活が一区切り
→ 「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格
という時間軸がつながります。
現在の山崎育三郎さんだけを見ると華やかな成功物語に見えますが、その前には家庭で介護をしながら舞台を目指していた10代がありました。
2026年「24時間テレビ」でヤングケアラー経験が再び注目

山崎育三郎さんの10代の経験が今改めて注目される大きなきっかけが、2026年8月29日・30日放送予定の「24時間テレビ49」です。
2026年のテーマは、
「わたしの家族の話~あなたは誰を想う?~」
山崎さんはチャリティーパートナーを務めます。
なぜ山崎育三郎がチャリティーパートナーに?
今回、山崎さんが向き合うのは「医療的ケア児」とその家族です。
日本テレビ公式も、山崎さんについて「10代で在宅介護経験を持つ」人物として紹介しています。
6月の制作発表会見では、山崎さん自身も、10代で脳梗塞を経験した祖父母と3人で暮らし、現在でいうヤングケアラーだったと改めて説明。
介護をする側、家族を支える側の気持ちを、自分の目線と言葉で伝えたいという考えを述べています。
単に知名度のある出演者として参加するのではなく、山崎さん自身の10代の経験が今回の企画とつながっているわけです。
山崎育三郎が向き合う「医療的ケア児」とその家族
日本テレビによると、医療的ケア児とは、退院したあとも人工呼吸器や胃ろう、たんの吸引、経管栄養など日常的な医療的ケアが必要な子どもたちです。
山崎さんは今回、そのような子どもと生活する家族を取材します。
制作発表では「兄ーズ」と呼ばれる双子の大学生についても紹介しました。
2人には9歳年下で難病を抱える弟がおり、幼いころから食事やおむつなど弟のケアを家族とともに支えてきたといいます。
双子は医師を目指す医大生でありながら、プロのピアニストとしても活動しています。
山崎さんは、2人の思いや家族の姿に触れながら、自身の経験も重ねて企画に向き合っています。
「介護された人」ではなく「支える側」の気持ちを知っている
今回の企画と山崎さんの過去を並べると、一つの共通点が見えてきます。
山崎さん自身も10代のころ、
学校生活を送りながら、ケアが必要な家族を支える側
にいました。
だからこそ、医療的ケアが必要な子ども本人だけではなく、そのそばにいる兄弟や家族の気持ちにも目を向けています。
2026年のインタビューでは、山崎さんは祖父母の介護を振り返りながら、誰かの痛みに寄り添うことや命について学んだという趣旨の思いも明かしています。
10代で経験したことが、40歳になった現在の仕事と結びついているのです。
「兄ーズ」と音楽でつながるところも山崎育三郎らしい
もう一つ興味深いのが「音楽」です。
介護生活を送っていた10代の山崎さん自身も、ミュージカルに支えられていました。
そして今回向き合う「兄ーズ」もプロのピアニスト。
その後、日本テレビは、山崎さんが「きょうだい児」の思いを歌にし、国技館で生披露することを発表しました。作詞は山崎さん、作曲はGRe4N BOYZのHIDEさんが担当します。
介護を経験した山崎育三郎
× 家族を支えてきた兄弟
× 音楽
という3つが重なる企画になっています。
この記事で高校時代の介護とミュージカルの関係まで知ってから番組を見ると、「なぜ山崎育三郎さんがこの家族に向き合うのか」がより理解しやすくなるでしょう。
なお「24時間テレビ49」は2026年8月29日・30日の放送予定です。
ここで紹介しているのは、2026年8月24日時点で公表されている内容です。
まとめ
山崎育三郎さんは高校生だった17歳ごろから、介護が必要な父方の祖父母と3人で暮らしていました。
本人自身が後年「今でいうヤングケアラー」のような生活だったと振り返っており、朝食を作り、トイレの介助をしてから高校へ行き、帰宅すると入浴を手伝うなど、学校生活と祖父母の介護を両立していたことを明かしています。
なぜ高校生の山崎さんが介護を担ったのかを知るには、当時の家庭事情を見ることが重要です。
父親は北海道へ転勤し、2人の兄は海外の大学、弟は香川県の強豪校で寮生活をしていました。それ以前に介護を担っていた母親も精神的に厳しい状態になり、山崎さん自身が祖父母を支えることを決めています。
だからといって、家族の誰か一人に原因を求めるのは適切ではありません。
山崎さん本人も、誰かが悪いという話ではないことを説明しています。
そして、その厳しい生活を支えたのが親友たちとミュージカルでした。
友人たちは家へ来て介護を手伝い、笑わせてくれました。山崎さん自身は介護に行き詰まると劇場へ足を運び、いつか自分も舞台に立つという夢を持ち続けました。
その後、「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格し、現在のミュージカル俳優としての道へつながっていきます。
2026年8月29日・30日の「24時間テレビ49」では、今度は山崎さんが、医療的ケアを必要とする子どもとその家族に向き合います。
自身も10代で家族を支える側にいた山崎育三郎さん。
家庭で祖父母を介護した高校時代、支えてくれた友人、未来を見せてくれたミュージカル、そして現在は家族を支える人たちの思いを伝える側へ。
この時間の流れまで知ると、「山崎育三郎はヤングケアラーだった」という一つのエピソードだけではなく、その経験が現在の活動へどうつながっているのかまで見えてきます。
出典・参考資料
- 女性セブンプラス「山崎育三郎、日本にエンタメとしてミュージカルを根付かせるための決意」
- スポニチ「山崎育三郎『今でいうヤングケアラー』17歳で祖父母の介護経験」
- デイリースポーツ「山崎育三郎 ヤングケアラーだった『脳梗塞の祖父母を』」
- スポニチ「山崎育三郎 一人で祖父母を…高校時代の介護」
- スポニチ「山崎育三郎 男4兄弟の3男だった」
- WEBザテレビジョン「山崎育三郎、“自叙伝”で明かす留学時代の苦労と祖父母の介護」
- こども家庭庁「ヤングケアラーについて」
- こども家庭庁「ヤングケアラーを知っていますか?」特設サイト
- 研音「山崎育三郎『24時間テレビ49』制作発表会見」
- 日本テレビ「24時間テレビ49 概要・出演者」
- 日本テレビ「24時間テレビ チャリティーコンテンツ」
- マイナビニュース「10代で在宅介護経験の山崎育三郎が『24時間テレビ』で寄り添う」
- ORICON NEWS「山崎育三郎&安倍なつみが結婚 交際4年実らせ」
- ORICON NEWS「安倍なつみ、第1子男児出産」
- ORICON系eltha「安倍なつみが第2子男児出産」
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